2005.8.4
林光・東混 八月のまつり26
報告:渡辺和/音楽ジャーナリスト・中央区佃在住サポーター/1階6列32番
投稿日:2005.08.4
~第一生命ホールと歴史のつながりを思い出させる日
![20050803_2.jpg](https://www.triton-arts.net/data/concert/monitor/upload/20050803_2.jpg)
敗戦が還暦を迎えようとするいま、ちょっと、歴史の話をしよう。演奏会の中身の評価は、別のモニターがなさってくれるということなので。
「八月のまつり」とは、「初演団体東京混声合唱団が、作曲者林光の指揮で、年に一度『原爆小景』を歌う日」だ。普段は神社の奥に奉納され、表に晒されることはないけれど、人々の心の奥底に常に存在している大事なものが、封印を解かれて、表に出てくる瞬間。文字通りの「祭り」である。
どのような形であれ、「原爆小景」を語ることは、歴史を語ることになる。第一生命ホールとすれば、お堀端の第一生命館内旧第一生命ホールで初演された数々の新作の中でも、飛び抜けた傑作のひとつ。なにしろ第1曲「水ヲ下サイ」は、前年に書かれた武満徹の「弦楽のレクイエム」と並び、1950年代に日本作曲界が生んだ最高傑作なのだ。
初演された1958年、日本初のプロ合唱団の東京混声合唱団は、自身が熱心なアマチュア声楽家だった第一生命保険相互会社会長の個人的な支援を受け、旧第一生命ホールを拠点に活動していた。定期演奏会や重要な特別演奏会、社内イベントへの参加、はたまた社歌録音への参加に至るまで、今ならばさしずめ「レジデント合唱団」とでも呼べそうな関係だったのである。
戦後13年目、敗戦直後から有楽町近辺の様々な舞台で異才ぶりを発揮していた俊英作曲家林光のヒロシマ原爆を題材にした作品が、これまた俊英指揮者岩城宏之により本拠地での第10回定期演奏会で委嘱初演される。その場所は、原爆を投下した責任者たる連合軍の日本占領総本部の講堂であり、朝鮮戦争で再び原爆を用いようとして解雇さえたマッカーサー元帥が執務室を出て右に曲がり、連日足を運んだカトリック礼拝所だったことは、いまさら言うまでもない。
初演の時点で、この音楽と「第一生命ホール」を巡る歴史は、既に多層的に広がっていたのである。
「水ヲ下サイ」の演奏史を記す余裕はない。が、この猛烈にインパクトの強い作品は、急激にレベルを上げていった日本のアマチュア合唱団に頻繁に取り上げられ、一気に広まった。そして高度成長が終わり、音楽の前衛にある程度の見通しが付いた頃、リゲティ風の第2曲と、ベリオ風シアターピースの赴きもある第3曲が付け加えられ、この3曲が20世紀の「原爆小景」となって定着した。高校生からアマチュア、プロまで録音も10種類を超える。
オイルショックで高度成長に水がさされ、戦後平和教育という言葉が消え去りつつあった1980年、林光が原爆記念日(昔はこういう言い方をしたものである)の頃に「原爆小景」をメインに据えた演奏会を始めた。「八月のまつり」の始まりである。当時東混が本拠地としていた文化会館で始まり、第2回から第4回までをイイノホールで過ごした夏の歌のまつりは、1984年の第5回から第7回までを、旧第一生命ホールに戻っている。この頃、東混が懐かしいかつてのお堀端の本拠地に帰るのは、このときだけだった。1987年には前年秋にオープンしたサントリーホールに移り、旧第一生命ホールが取り壊された翌1988年からは、これまた前年暮れにオープンしたカザルスホールに居を定める。そして、2003年夏、「原爆小景」は再び第一生命ホールへと帰ってきた。日本で初めての、イラク戦争について歌った音楽の初演と共に。
東混が「八月のまつり」をカザルスホールから新第一生命ホールに移すと知ったとき、ホールのオープニングから関わったスタッフのひとりは、涙しそうになったという。平和主義者の名を冠した民間ホールに長くいたのは、決して偶然ではなかったはずだ。八月に「原爆小景」が鳴るホールが、東混にとって、そして東京の文化にとってどのような意味を持っているかを察すれば、スタッフの気持ちも理解できる。
※※
歴史の話が長くなりすぎた。駆け足で、26回目のまつりについて。
いつものように、下手側の譜面代に楽譜と、白い花が客席に向いて置かれている。客席には熟年層が目立つ。このイベントと音楽が、ある世代の人生といかに深く結びついているかを示すかのようだ。若い客は、合唱専門家の学生か、出演者の生徒さん。
これまたいつものように、林光が舞台に登場。短いメッセージ。「映像や文字で語れないものを、音楽で語りたい。...『原爆小景』を繰り返すのは、プロテストだけではなく、未来に向かって、歴史に向かって語ることが目的だから。」
最初に据えられた「原爆小景」、今年の演奏は、例年に比べて終曲に向けた劇性を非常に強調した、とてもメッセージ性の高いものだった。それこそ、マーラーの「復活」終曲みたいな。この曲で語られることを、リアリティがあるものとして感じることができない人々は、この曲をマーラーの「復活」のように歌ってもかまうまい。だって、この曲がそうやってしてでも歌われていく限り、ヒロシマを考えざるを得ないのだから。それこそが、芸術家林光が未来に向けて据えられる最大の仕掛けなんだろうから。
初演となる「とこしへの川」の前で、作曲者は「このテーマ(原爆)で書くことは、もうない」と明言した。コンパクトで明快な曲。ヴァイオリンはオブリガートに近い。長崎のための、第2の原爆小景とも言うべき小品である。林光の原爆テーマの最後の作品が新しい第一生命ホールで再び生まれた事実は、ホールの歴史にとってとても喜ばしい。たまたまとはいえ、そこに山田百子というホールで活動するクァルテットのメンバーが加わっていることも、とても象徴的だし。
後半の「林光ソングブック」、最初の4曲は叙情歌編曲。みんな東混が初演しているけど、「今日のメンバーには初演者はひとりもいません(林)」。客席は笑っているけど、重要なメッセージ。つまり、東混って、珍しくもちゃんと新陳代謝している合唱団だ、ということではないか。東混には、これからの歴史がある。
後半3曲はソングの合唱編曲版。これもみな東混が初演。山田百子のヴァイオリンが付いた「うた」は、ポーランドの歌を意識したというけど、なんのことはない、歌声喫茶風の曲だ。これまた、戦後の歴史の中での響く音楽。
アンコール、没後10年となる武満徹「死んだ男ののこしたものは」の林編曲合唱版。「前衛作曲家で、人々が誰でも口ずさめる歌を書けたのは、武満だけだった。(林)」言葉のひとつひとつが、「死んだ歴史」という言葉の意味が、とりわけ重く響く戦後60年の夏。政争に明け暮れ自壊直前の永田町の人々の前で、みんな、この歌を口ずさもう。
そして最後、いつものように、「星めぐりの歌」。転調ごとに少しづつ遠くなり、馬鹿馬鹿しい人の振る舞いなど置き去りにし、遙か銀河の彼方に消えてゆく、宮沢賢治の言葉たち。
公演に関する情報
〈TAN's Amici Concert〉
林光・東混 八月のまつり26
日時: 2005年8月3日(水)19:15開演
出演者:林 光(指揮)、寺嶋陸也(ピアノ)、山田百子(ヴァイオリン)、
東京混声合唱団
演奏曲:
林 光作曲/原民喜詩:原爆小景、
林 光作曲/竹山広 詩:とこしえの川-混声合唱、ヴァイオリン、ピアノのための
(2005委嘱作品世界初演)、
林 光ソング集:早春賦(中田章)/曼珠沙華(山田耕筰)/椰子の実(大中寅二)/
ゴンドラの唄(中山晋平)/明日ともなれば(詩・ロルカ)/うた(詩・佐藤 信)/
ねがい(詩・佐藤 信)