第一生命ホールの「室内楽ホールdeオペラ」シリーズで、「佐藤美枝子の『ルチア』」が開催される。日本を代表するソプラノである佐藤美枝子が、やはり日本のオペラ界を牽引してきた演出家・岩田達宗とタッグを組んで送る、ドニゼッティの歌劇『ランメルモールのルチア』のハイライト公演だ。公演の特色や、作品についての思いなどをふたりに聞いた。
(取材・文 音楽評論家 室田尚子)
今、『ルチア』を上演する意味
これまでさまざまな機会に歌っていらした『ルチア』ですが、今、改めて取り上げる意図をお聞かせください。
佐藤 究極のベルカント・オペラといえばやはり、ベッリーニ、そしてドニゼッティです。私の人生の到達点に何を成し遂げたいか、といえばやはりこのふたりの作品になります。そうした中、歌い手としては総合的にピークであると感じている現在、もっとも凝縮されたものをお届けするのはと考えたときに、『ルチア』しかない、と思いました。私がこれまでに培ってきたテクニックや音楽性を、第一生命ホールという空間で存分に披露できる作品です。
そして、やはりこれまでに数多くの作品でご一緒していらっしゃる岩田さんのプロデュースです。
佐藤 岩田さんは私がもっとも尊敬する演出家です。2003年に岩田さんの演出で初演した『幻想のルチア』も重要な経験でした。
岩田 ロッシーニが高めたベルカント・オペラの値打ちは、サウンドではなく言葉の力です。イタリア語による歌の力が人の心を打つ、というのが本質。そのためには基礎であるレガートができていることはもちろん、細かいイタリア語のニュアンスが身についていなければなりません。今回出演する4人の男声キャストは、全員がその力量を持った人たちです。第一生命ホールという室内楽用の空間で、非常に緻密な音楽を作ろうと考えて集めたメンバーです。
少数精鋭で臨む『ルチア』ですね。
岩田 合唱がない分、音楽がソリストに集中することで、本当にドニゼッティが伝えたかったこの作品の本質がみえてくると思います。それは「二律背反」ということです。ドニゼッティやベッリーニが活躍したのは、イタリアが統一に向かってナショナリズムが盛り上がってきた時代です。しかし作品をよく読み込んでみると、彼らはそうした動きに反論しているんですね。祖国の栄光や名誉が大切だというけれど、そんなことのためにこんなにたくさんの人が死んでいいのか、ということを言っている。『ルチア』も、スコットランドがなくなるかもしれないという状況の中で、それを守るために奔走したエンリーコは、結果的に自分の大切な人を殺してしまう。国のために一人の女の子が死んでしまうということの意味は、まさに現代に生きる僕たちが考えるべきテーマだと思います。
ルチアという女性について
愛する人と結ばれなかったために狂乱に陥ってしまうルチアですが、佐藤さんはルチアをどういう女性だととらえていらっしゃいますか。
佐藤 確かに時代に翻弄されますが、一貫して自分の芯を曲げない強さを持っている人。その強さがあるからこそ、心を引き裂かれてしまうのだと思います。私はありがたいことに狂乱を歌う声に生まれ、これまで色々な狂乱の場を演じてきましたが、ルチアがその中ではいちばん強い女性だと感じます。芯の強さという点では揺るがないものを持っているのです。
岩田 実はおかしいのはルチアではなくて、男たちの社会の方ですよね。女性を結婚させてスコットランドという国を守ってまた戦争する、つまり大勢の人を殺すわけでしょ。ルチアは男たちがやってきたことを目の前で見せたんだと思うな。アルトゥーロを殺したってみんな驚いているけれど、あなたたちもっと酷いことをしてきたでしょ、っていう。
確かに、人を殺すなんてある種の狂気がないとできないものです。
岩田 人間が大きな集団を作って生きていくためには、色々なことを理解して選択していかなければならない。その選択が間違っているのではないかと、人は悩むわけですが、ルチアは一度理解して選んだことに関しては揺るがないんです。決して言い訳をしないという意味で、あの狂乱は巨大な沈黙です。そういう生き様の厳しさ、尊さみたいなものを示しているのがオペラのヒロインで、ルチアはその代表ですね。男にはそういう人はいません。いつも迷って、文句を言っている。『魔笛』のタミーノは沈黙しますが、それも他人から教えられ強制されたものですから。
最高の舞台を一人でも多くの人に
大変楽しみですが、どういう舞台になるのでしょうか。
岩田 特別な舞台装置はありませんが、ホールにある設備を使って、人がたくさんいるように見せる工夫をしようと思います。狂乱の場の後で、ルチアが天に昇っていくような演出も考えています。今回は25歳以下の方は1500円で鑑賞できるチケットが発売されているので、ぜひたくさんの若い方に足を運んでいただきたい。音楽は体験する芸術です。今、日常空間には音が溢れかえっていますが、ぜひ劇場で、音楽に耳を澄ます瞬間を体験してください。
佐藤 演じるのが楽しみに思える演目であり、演出になると思います。この「楽しみ」に思える時は、たいてい良い舞台になるんです。同じ作品でもそう思えることはそれほど多くはありません。共演者、演出家、さまざまな条件が揃わないといけませんが、その意味では、今回の『ルチア』は最高の舞台になる予感がしています。