ベートーヴェン・チクルスの最終回として、昨年11月に「第九」を演奏したトリトン晴れた海のオーケストラ(晴れオケ)。指揮者なしの「第九」は、ライブ録音CDが絶賛され、NHKで放送、指揮なしでの挑戦がドキュメンタリー番組にもなりました。チクルスを終え、「晴れオケ」が新たに進む道を、コンサートマスター矢部達哉さんに伺いました。
[聞き手・文/田中玲子]
10月の公演では、昨年ショパン国際ピアノコンクールで第4位に入賞された小林愛実さんをお迎えして、モーツァルトのピアノ協奏曲をおおくりします。
矢部:ショパン・コンクールの配信を、ライブで夜中ずっと視聴していたのですが、小林さんの演奏した3次予選で「こんな《24のプレリュード》は聴いたことがない」と魅せられてしまって、本選の前にもうオファーしたいと思いました。すばらしいセンスを持った方ですよね。共演が実現することになり本当にうれしいです。モーツァルトのピアノ協奏曲「ジュノム」が、彼女の個性に合うのではと想像してご提案しました。美しくて快活で、素敵な曲です。これまで「晴れオケ」で演奏してきた協奏曲は、まさに「室内楽」の世界。横山幸雄さんと共演したベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏会がなかったらこのベートーヴェン・チクルスはなかったし、昨年6月の小山実稚恵さんとのベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番は本当にすばらしい経験で、あれがあったからこそ11月の「第九」になりました。そもそもは、「晴れオケ」2年目の2016年に演奏したポール・メイエさんとのモーツァルトのクラリネット協奏曲が、本当に室内楽そのものでしたよね。オーケストラの皆が音に反応していて、メンバーにここまでゆだねていいんだ、と思えました。こうした経験すべてが糧になっています。「晴れオケ」はそんなオーケストラなので、小林さんにも楽しんで演奏してもらえたらと思います。
小林さんの繊細なピアノと、室内楽のようなやりとりができる「晴れオケ」との共演は、第一生命ホールのようなサイズのホールだからこそ、その魅力がより堪能できる気がしますね。モーツァルトはもう1曲、交響曲「リンツ」を。
矢部:「晴れオケ」といえばベートーヴェン、と最近定着していますが、最初はモーツァルトでスタートしましたし、このピアノ協奏曲「ジュノム」と、交響曲「リンツ」はモーツァルトの中でも、僕が最も好きな作品のうちの2つなんです。モーツァルトの一番の魅力は、高貴で優雅なたたずまいを見せながら、ふっと寂しさのような本心が出てしまうところ。シューベルトの作品ににじみ出るような寂寥感とは違って、まるでモーツァルト自身もその辛さに気づいていないかのような無意識な寂しさが見える時に、なんとも言えない気持ちになるのです。この2曲の第2楽章などは、モーツァルトの心がよく見える気がしますね。
このモーツァルト2曲と共に、ベートーヴェンは弦楽四重奏曲「大フーガ」を演奏します。
矢部:やはり昨年11月の「第九」は特別な経験でした。ライブCDの編集作業にも立ち会ったのですが、第1楽章の録音を聴き終わった後、一瞬自分が弾いていたことを忘れて「これ、本当に指揮者がいないんですか?」と言ってしまったくらい、テンポもダイナミクスも解釈も、演奏家全員が同じ景色を見て一つの方向に向かっていて素晴らしかった。手前みそですが(笑)。「晴れオケ」の魅力が全部詰まっていますね。そんな「第九」の後に、自分もお客さまも「ベートーヴェン・ロス」になってしまうのではと思い、弦楽四重奏曲「大フーガ」を弦楽合奏でやってみたいと思っています。「第九」を終えた後の「晴れオケ」は守りに入ってはいけないかなと思い、攻めようかと。
ベートーヴェンが「第九」後に取り組んだ後期の弦楽四重奏曲を、晴れオケで聴けるのは楽しみです。あの「第九」は、お客さまにとっても、私たちにとっても特別な体験でした。
矢部:コロナ禍で延期となったことで、心が傷ついたり、社会の分断があったり、それぞれ色々な経験をしたからこそ、あの「第九」になって、多くの人の心にこれまでとは違う響き方をしたのだと思います。僕自身、ドイツ語の歌詞の意味まで細かく勉強して、ベートーヴェンが「第九」に込めたメッセージに向かい合う時間ができて、あらためて時代を生き抜く、本当に強い音楽だと再認識できました。コロナ禍で傷ついた世界が、また今ロシアのウクライナ侵攻で踏みにじられていますが、こんなことは世界の多くの人が望んでいないこと。人間の根源的な価値は同じで、ほとんどの人は皆が手を携えて生きていきたいと思っているはずなんです。「第九」ほどメッセージの強い曲はないし、人間の心に寄り添う普遍的な強さを持つ作品だと思います。日本では年末の風物詩ととらえられがちですが、これからはより「人間とは何だろう」「これからどのように歩むべきだろう」という「第九」の持つメッセージが大きくなると思います。それによってすぐ世界の状況が変わるわけではありませんが、その気持ちを持ち続けることが大事、少なくとも自分はそう思って弾いていきたいと思います。「晴れオケ」の「第九」には、自分なりにできる限りの勉強をして臨みましたが、その結果、まだまだ分からないことも多いと分かったので、またいつか「晴れオケ」でやりたいですね。
はい、ぜひまたいつか「第九」をお願いできたらと思っています。
矢部:晴れオケでベートーヴェンを積み重ねてきて、メンバー間で楽譜の読み方が一致してきているので、これからも楽譜に書いてある記号から、作曲家の心にアプローチできるような音楽を創っていけたらと思いますし、それを聴いている皆さんとも共有したいと思っています。最近、メンバーの皆さんの勘が鋭すぎて、僕の考え方を予測しすぎてしまうんです(笑)。でも、もし「矢部さんって、ああいう感じだよね」となったら、「晴れオケ」はダメになってしまうので、僕はまた変わっていくはずです。
あれだけの「第九」にも安住することなく、すでに前を向いている矢部達哉さんと晴れオケ。これまで聴いてくださっている方、CDやテレビで知ってくださった方にも、またさらに進化した「晴れオケ」をお見せできると思います。ぜひ、第一生命ホールで、「晴れオケ」を体感していただければと思います。
(2022年4月都内にて)