トリトン晴れた海のオーケストラ(晴れオケ)の首席コントラバス池松宏さんに、11月27日の「第九」公演を前に、「オーケストラの中で一番おいしい」というコントラバスの、音1つにかける想いを伺いました。
[聞き手/文:田中玲子(トリトン・アーツ・ネットワーク)]
晴れオケ「第九」について
晴れオケはどんなオーケストラでしょうか。
池松:管楽器も入って「第九」を演奏する規模のオーケストラで指揮なしというのはめずらしい、それが一番の特徴ではないでしょうか。
意外だと思いますが、指揮者がいるよりアンサンブルはよく合いますよね。お互いに聴いたり、場の雰囲気を感じて音を出したりするので、そこで邪魔する人がいない。指揮者は、「自分はこうしたい」というのがありますから、それが良い悪いでなく、弾いている側と齟齬があるわけです。指揮者がいないと、ひとりひとりの顔が良く見えて、演奏からもそれぞれがこう弾きたいんだというのが見えるのは楽しいですね。ただ、お互いよく聴いて合わせようという意識が働くので、どうしても全員の総意を探そうとはなる。僕はそういうタイプですね。
池松さんも総意を探されるわけですね! 以前、山本裕康さん(晴れオケ首席チェロ)がインタビューでおっしゃっていたのは、指揮者がいないので、矢部さんがリーダーになって、この山を登ろうという時、例えば途中で岩があって、矢部さんが「この岩は左からまわろう」と決めて歩いているのに、池松さんだけは岩に登っていたりする、と。
池松:ああ、そこが一番大切だと思っているんですよ。結局、同じ山の頂上は目指していますが、みんなで左ルートから行こうとすると、あまりいい演奏にならない気がします。右の人もいて、左の人もいて、上から行く人もいて、トンネルを掘っていく人もいて、それで頂上に着いた方が絶対いい演奏になると思うのです。
具体的には演奏上でどんなことをなさっているのでしょうか。
池松:心掛けているのは、例えば響きで言うと、自分の近くで弾こうとしないで、上の方の一点にオーケストラ全体の音が集まること。位置としては、指揮者がいる場合の頭の上あたり。理想としているのは、それぞれが自分の近くで弾いてその音が集まるのではなくて、皆がそこを目指して弾く意識。アンサンブルもそうです。違うリズムを弾いている楽器がいたら、単純にそこにぴったりつけるだけではなくて、もうちょっと先を想像して弾く......。例えばコントラバスがどこかにピッツィカートを入れる時に、縦の線だけに合わせるのではなく、最後に皆が行きたいところを想像して、縦の線に割って入れるみたいな。「10歩歩いて10m」じゃなくて、「10mの中に10歩入れる」感覚ですね。そうすると細かく刻んでいる楽器とずれていたりするのですが、全員が10m先で合っていればいい。つまり、頂上に立った時に一緒だったら途中は違ってもいいのです。
なるほど、それで池松さんのコントラバスが、オーケストラを動かしているように見えることがあるのですね。
池松:コントラバスは「一日十五日(ついたちじゅうごにち)の楽器」と言われるんです。つまり、ヴァイオリンは毎日働いているのに対して、ひと月の中で、一日と十五日しか働いていない、それくらいしか音符の数がない。ただ、例えば他の楽器がメロディを弾いているところに、ピッツィカートをポンと1つ弾く場合、そのピッツィカートは、要するに時間を決めるわけじゃないですか。音楽は「時間の芸術」なので、そのピッツィカートをどこに入れるか、その0.1秒、0.01秒の差......タイミングだけではなく音色や音量もありますが、実はそれで音楽の表情がものすごく変わるのです。だから実はコントラバスが時間を支配しているのだと思います。
幸いなことに、今まで僕はものすごく尊敬できる演奏家と一緒に弾く機会がたくさんあって、そこから得たことも大きいですね。テクニックではなく、その方が何を聴いて、どう感じたから、今ここでこう弾いた、と観察することが、非常に勉強になりました。
指揮者のいない晴れオケで、コンサートマスターの矢部達哉さんは、池松さんから見てどんな存在でしょうか。
池松:コンサートマスターは、僕は絶対にできないと思いますし、尊敬します。ものの言い方も、音楽の内容も、バランス感覚が取れた人でないとすごく難しいと思うんですよね。あまり色々言ってしまうと演奏家の能動性が失われる、その辺をやはり演奏家だからよく分かっています。あまり細かなことは言わずに、方向性を示していく、そこは本当に見事だと思いますね。本人には言いたくないですけど。(笑)
そのお世辞を言わない池松さんが、晴れオケの第1回の演奏会の後に矢部さんによかったとメールをくれたと。
池松:こう見えて気を遣ってるんですよ。いや、なかなかこの規模で指揮なしというのはないので、そういう意味ではうまくいったんじゃないかな、と思ったのです。
指揮者っていつも、くそったれだと思っているんですけど、くそったれでもいたほうがいいんだなと思うことが多いです。いないと、逆に、下手すると個性が失われる。弾いている方としては、指揮者がいる時よりも自分たちがやっているという感覚があるので、盛り上がるんですけど、いまいち、タガが外れないですよね。どうしてもみんなの総意の中で弾こうとするわけで、そこは非常に難しいところだと思います。
逆に自由になり切れないところもあるということでしょうか。
池松:自由度が低くなる。でも個人個人の自由度は高いとも言えるんですよね。指揮者がいると社長がいて、課長、係長がいる感覚ですが、それよりは、もう少し全員が自由でありたいと思うので、リハーサルで茶々を入れるんです。皆が同じ方向を向きすぎている時には、僕の性格的に、「こっち行ってみない?」と茶化したくなる。皆と違う方向の音楽をしたいというわけでは決してないのですが、皆さんがやりたいことをやれるように、「こういうのもありますよ」と示したくなる。オーケストラがおもしろいのは、色々な人がいるからなので。意外とヴァイオリンの人などは、ずっと弾いているので、気がついていないことがあるんですよ。こちら(コントラバス)は、音数が少ない分、傍観者として聴いて、言えることはありますね。
着地点を皆さんで探すわけですね。「第九」については、他の曲と違うと思われる点はありますか。
池松:何十回弾いてもいい曲だなと思うのが、やはり普通ではないですし、毎回「ああ、こんなことやっていたんだ」といまだに発見がある。年に何回も演奏する曲が「第九」でよかったと思いますよ。ほかの曲だったら耐えられないですね。やはりベートーヴェンの中でも交響曲第8番までと比べると、何か色々変ですよね。ちょっと理解不能なところがたくさんあるのがいいのだと思います。
「第九」4楽章は、チェロとコントラバスによるレチタティーヴォと「歓喜の歌」の始まりが印象的ですが、やはりコントラバス弾きとして、やりがいがあるものでしょうか。
池松:あまりそうは思わないんですよね。プレッシャーはありますけど。もちろんそこはオーケストラのオーディションには必ず出ますし、上手に弾かないといけないのですが、コントラバスをやっている人間は、メロディを弾きたいのではないので、あれがすごく好きというわけではないですね。
レチタティーヴォで難しいのは、チェロが前、後ろにコントラバスがいることですね。指揮者がいれば指揮者につければいいのですが、いない場合、普通は単純に僕がチェロの首席の山本君を見て合わせるんですけど、それだとうまくいかないんです。やはりベースの上にチェロが乗っているべきなのですね。彼もすばらしくアンテナを張っている人なので、どちらが合わせるのではなく、チェロとコントラバスでこの辺を目指していく、というのが理想ですね。
音楽家には、2種類いると思うんです。楽器が好きな人と音楽が好きな人。僕は、間違いなく楽器は好きじゃないんですよ。コントラバスは嫌々始めたので。ただ、オーケストラで弾いているとティンパニと並んで一番おいしい楽器だと思います。ソロだったら、ヴァイオリンが弾いたり、歌手が歌ったりした方がよほどうまく弾けるんですよね。ソロより、オーケストラの中でのコントラバスの役割を果たしている時が、楽器の特性が一番活きて、音楽に貢献していると思います。
だからコントラバスが活きるという意味で、オーケストラの中で弾くのが好きです。絶対うまくいかないし、コントラバスもひとりじゃなくて複数人いる。それでパートの中でもオーケストラ全員も、皆が違う方向を向いているところがいいですね。皆個性があって全員が同じ方向を向くなんてありえない。奥が深いです。音程も合えばいいというものではなくて、あんまり合っているとすごく冷たい響きになるので、ある程度ずれていた方が、太くて柔らかい音になったりする。一番難しい、一番うまくいかない。だからオーケストラが好きですね。
この後、「第九」の翌週12月4日に出演する「小山実稚恵の室内楽」シューベルト「ます」についても、「世界で一番鱒を知る演奏家」として、音を出す前にイメージを明確にすることの大切さなど、たっぷりと語ってくださっています。
インタビューの続き:シューベルト「ます」池松宏(コントラバス)はこちら
【おまけ】以下は池松さんが送ってくださったおまけ写真。写真の説明は、池松さんご自身によるものです。