<トリトン晴れた海のオーケストラ>が2018年から積み上げて来た、指揮者なしの演奏による「ベートーヴェン・チクルス」。その最後の頂きとも言えるのが「交響曲第9番」である。昨年予定の公演は新型コロナウイルスの流行によりかなわず、ようやくこの11月27日に開催されることになった。演奏に参加する矢部達哉(コンサートマスター)と、高橋敦(首席トランペット奏者)のお二人に、この公演にかける想いを伺った。
[聞き手/文:片桐卓也(音楽ライター)]
ベートーヴェン「第九」の魅力
まず、ストレートに質問をぶつけますが、日本人が毎年暮れに必ず聴き、演奏するベートーヴェンの「第九」という作品の魅力とは、どんなところにあるのでしょう?
矢部:「第九」はやはり日本で一番有名な交響曲だと思いますし、クラシック音楽にそれほど興味が無い方でも、「ああ、あのメロディか」と分かる作品だと思います。この30年ほど毎年「第九」を演奏して来ましたけど、作品に<慣れる>ということはありません。「50回、60回と弾いていれば、目をつぶっても弾けるんでしょう?」 と聞かれることもあるのですが、そんなことはなくて、毎回毎回の演奏が緊張で、自分の精神力を試されるようなところがあります。日本では、その一年の締めくくりの音楽として、祝祭的な面がクローズアップされることがあると思いますが、演奏する側は毎年大変です。
この交響曲では、第1楽章で最大限の集中力を必要とされ、第2楽章はアンサンブルが難しく、第3楽章には後期のベートーヴェンの響きがあり、本当にみんなが調和した時の響きが美しいのですが、それを出すのはとても難しく、ひと言で言って、僕にとっては越えられない山みたいな感じです。演奏を通して、感動した、うまく行ったと思うときはあるけれど、この作品が分かったという気持ちになったことは一度もない曲ですね。
高橋:大好きな曲ですし、僕も30年近く、何十回も演奏して来た作品ですが、演奏するたび毎回感動する作品です。そういう意味では飽きない、毎回楽しんで演奏できる作品です。
「第九」の醍醐味は、第1楽章での強烈なダウンビートの繰り返しや、盛り上がっては静まりということを繰り返したりする点、第2楽章はスケルツォで、やはり同じ音型の繰り返しが多い。しかし、第3楽章は一転して夢のような世界で、かなり長い夢を観ているような感じですが、突然トランペットがファンファーレを鳴らしたりして、その平安を破ります。やっと第4楽章になりますが、最初はオーケストラだけが演奏し、なかなか歌が出て来ないところも、ベートーヴェンらしいかもしれません。想いを込めた、ひとつひとつの楽章に魂を宿した作品だと思います。第4楽章の途中からやっと「歌」が登場し、合唱が盛り上がる所は本当に感動的で、毎回、幸せな気分を味わえる曲です。
「第九」を考える時にいつも気になるのは、ベートーヴェンの宗教曲の中でも最も大規模な作品「ミサ・ソレムニス」のことです。ベートーヴェンは「第九」完成前に、この宗教曲に取り組んでいたのですが、そこから来る宗教的な雰囲気は「第九」の中に感じられますか?
高橋:そういうイメージもあるでしょうね。ベートーヴェンの後期のシンフォニー、例えば第5番「運命」でベートーヴェンは初めてトロンボーンを使い、第6番でもトロンボーンも編成に入れた。第7、8番はトロンボーンなしですが、第9番では再びトロンボーンを入れた。それは一種の宗教色を意識したのかもしれません。というのも、トロンボーンという楽器は古くから宗教曲で重要な意味を持つ楽器でしたから。
そして「第九」はD-dur(ニ長調)で終わりますが、ニ長調というのは祝典的な色彩を持つ調で、当時のトランペットには一番馴染みのある調性でもあるのですね。そういう点から考えると、宗教的な意味合いと祝祭性のイメージは、ベートーヴェンの中にあったのではないかと思います。
矢部:これは<受け売り>になりますが、吉田秀和先生が「第九」についておっしゃっていたことがあります。「この曲を特別なものにしているのは、祝典的な華やかさと宗教色が高い次元で融合されたこと。その唯一の作品だ」と。
例えば、第3楽章の中間部では、静けさの中に情感を湛えていますが、それはベートーヴェンの他の作品にはない。それが「第九」を特別にしている部分だと思いますし、第4楽章で、初めて歌が出て来るところの衝撃というのは、毎年弾いていても、「うわ~」と思う。「あ、来た!」と思うのは、聴衆の方々だけでなく、僕たちもそうなのです。毎年、何回も演奏を重ねても感動するという「第九」は、やはり特別なものなのだなと思いますね。
交響曲というものを突き詰めたベートーヴェンが、その最後の交響曲で人間の声、歌、コーラスを使ったということが、とても「意味深」に思えます。
矢部:もしかしたら、言葉によるメッセージが欲しかったということがあったかもしれないですね。それ以前は、貴族のために音楽があり、作曲家は貴族に雇われていた。でも、普通の人間に音楽が降りて来た、その最初の時代の作品ですし、みんなで音楽を共有しようと言う時に、言葉によるメッセージをみんなで分かち合おうということをベートーヴェンはやりたかったのかなとも思います。
だから、このコロナ禍での「第九」という位置づけをするつもりはないのですが、昨年からのコロナ禍からみんなが協力して立ち上がろうとか、感染しないように気をつけようとか、コロナを退治しようという動きもあったなかで、コロナによって試されているのは、実は、我々一人一人の心のあり方だったのか? と感じることもあります。なんとなくギスギスしてしまうとか、言葉とかメールのやり取りもイライラしている人が多いと思いませんか? やっぱり試されているのはそこなのかな、と思います。それぞれの国が、自国第一主義で分断されるし、それ以外の部分でも分断される。このひとつの地球に住んでいるのだから、みんなが仲良くして行けば良いのに。その中で「第九」という作品は、みんなをひとつにする力があるのではないかと思うのです。そういうパワーを一番持っている音楽かなと思います。
以前、長野で冬季オリンピックがあった時に、僕はたまたま参加できなかったのですが、小澤征爾さん指揮でサイトウキネン・オーケストラが「第九」を演奏しました。そこでは、アフリカの人が踊ったり、歌ったり、世界各地からの映像が集まりましたよね。小澤さんがあの時、NHKってすごいねと言っていたのですが、それは微妙な音と映像の時差がNHKは修正出来るって、びっくりしてらした。その言葉が印象に残っていました。
今回、東京でオリンピックが開催される時に、みんなで「第九」が出来たら良いねと言って始まったのが、この「晴れオケ」のベートーヴェン・チクルスのプロジェクトでした。音楽としての強さ、そしてメッセージの力が強いのが「第九」ですね。
言葉を使うという点、高橋さんはどう思われますか?
高橋:ベートーヴェンが表現したかったこと、それはオーケストラの楽器だけでは足りなかったのかな? という気がします。貴族のための音楽から、一般の聴衆に向けて発信する音楽になる。社交の場の音楽ではなく、人間の内面的な部分や、人間そのものを音楽で表現する。ベートーヴェン自身の考えを表現するのに、自分自身の魂、神との対話とか、他の要素もいろいろとあったかもしれませんが、それを表現するのに、楽器だけは伝わらない、だから、合唱を使って表現したのかなとも思いますね。
実際に演奏なさっている時、第4楽章はかなり大きな音量で、演奏家がお互いに聴き合うのも難しそうですが、管楽器奏者の方はどうなのでしょう?
高橋:合唱はちゃんと聴こえています。「第九」では、オーケストラが伴奏するのではなくて、合唱と一緒に動いているところが多いです。オーケストラの各声部が合唱と一緒になって演奏しているところが多い。合唱を聴きながら演奏しないとアンサンブルが成立しないので、やっぱり楽器奏者も合唱の一部となって演奏しているような感じがします。僕は「第九」を歌ったことは無いので、残念ながらすべての歌詞は覚えていないです。ただ、長く演奏しているので、合唱やソリストの歌のパートは、音としては分かっています。
インタビュー その2 へ続く