《雄大と行く 昼の音楽さんぽ》、昨2020年にコロナ禍で開催できなかった第21回が、あらためて実現することになりました。人気ピアニスト・牛田智大さんのオール・ショパン・プログラム、本当に惜しまれての中止でしたから、今度こそ忘れがたい時間を実際に体感できるかと思うと、嬉しさもこみ上げます。
1999年生まれ、CDデビューは12歳。早熟の天才少年として人気を博してきた牛田さんは今、いよいよ大きな扉をひらこうとしています。
13歳からモスクワ音楽院の教授陣に学び、ロシア音楽や古典派の音楽をみっちり磨き直し、そこで幼い頃から愛奏してきたショパンの音楽も深く見つめ直すことになりました。謙虚に研鑽を重ねながら、ショパンの故国ポーランドで演奏する機会にも恵まれました。その成果は、2019年にショパン〈24の前奏曲〉他を収録したCDアルバムにも実っています。情熱と詩情と繊細さの渦巻く〈24の前奏曲〉から「ひと」を浮かびあがらせる見事な音楽――。
今回の《昼さんぽ》ではその〈24の前奏曲〉をはじめ、ショパン晩年の幻想美あふれる傑作〈舟歌〉など、ピアノ音楽の魅力を深呼吸させてくれます。凜々しく歩む素晴らしい才能の〈いま〉を体感していただく絶好の機会‥‥その前に、牛田さんにリサイタルについてたっぷりお話を伺うことができました。
[聞き手/構成:山野雄大(音楽ライター)]
◆リサイタルの選曲について――全体をひとつの作品として
今回のプログラミングについて、お話を伺いたいと思います。まず〈3つのマズルカ(第33~35番)〉 (作品56)から始まり、牛田さんが2019年のアルバムでレコーディングされた〈24の前奏曲〉作品28の全曲、そして最後に〈舟歌〉嬰ヘ短調 作品60‥‥という選曲、素晴らしいと思いました。
牛田:ありがとうございます。ショパンの音楽は時として、過度にセンチメンタルで甘い雰囲気を纏ったキャッチーな音楽として捉えられてしまうことが多いように感じるので、それに少し逆行するようなかたちでやってみたいと。
ショパン自身も演技(パントマイム)が巧かったという話もありますが、我を失うというか‥‥理性では抑えられない狂気に満ちたような感情的な部分をこのプログラムで取り上げてみたいと思いました。
その〈感情的な部分〉を表現するためにも、それぞれ性格の異なる3つの作品を慎重に選ばれたわけですね。
牛田:全く違うスタイルの3つの作品を〈全曲でひとつの音楽〉のようなかたちで演奏したいと思っています。もともと〈24の前奏曲〉のレコーディングに取り組んでいたとき、最初[第1番]のagitato[アジタート=激して]の指示が曲集の導入としては少し唐突に感じ、第24番の最後の3つの鐘はフィナーレとしては少し集結感に欠けると感じていました。
今回のリサイタルは全体で60分という時間をいただけたので〈24の前奏曲〉の前後にも作品を加え、ひとつの世界観を表現できるようにと考えました。
ぜひ、詳しくおきかせください。
牛田:まず最初の〈マズルカ〉はショパンの祖国に対するイメージの投影です。木葉のざわめき、小鳥の鳴き声といった自然の描写とともに、少し貴族的な誇り高い要素が感じられます。続く〈24の前奏曲〉では、ショパンの役者的な一面であったり、24の異なる感情から彼自身の精神的な不安定さを感じることができます。そして最後は慟哭へ落ちてゆく。
〈舟歌〉ではショパン自身手が届かなかった理想を表現していると思います。温かい家族、希望のある未来のようなものへの渇望を、憧れの国だったイタリアのスタイルに重ね合わせています。
ショパンのデュナーミク[強弱表現]の書き方には矛盾したものがたくさんありますね。例えば和声が弱進行的に解決する場所にクレッシェンドを書いたり、ディミヌエンドの頂点にsf[スフォルツァンド=特に強く弾く]を書いたり、といったようなものです。それらは「幸福を求めるが手が届かずに終わる」「破滅へ向かう運命に抵抗する」様子だと解釈しているのですが、今回のプログラムにはそういった要素が多く感じられる作品を選んでいます。ある意味で、彼自身の憧れ・理想へ向けた闘いから諦めへの変遷、ショパンの人生観のようなものを表現できるのではないかと思います。
ふだんあまり表現されることのないショパンの一面を、本音に近い部分を感じられるプログラムです。
◆ショパンの感情表現――美しいもの・醜いもの
ショパンにとっての〈憧れ〉は決して軽いものではなく、強いものに押し流されていったり、それに抗ったりと、さまざまな強さや弱さがないまぜになった、重みを持った〈憧れ〉であるように思いますね。
牛田:彼の手紙などを読むと退廃的な物言いやきわどい皮肉がとても多い印象があります。もちろんその中にも友人や祖国を心から気遣う言葉がたくさんあり、心根はとても純粋で優しい人だったのでしょうけれども、小さい頃から弾圧されたポーランドに育ち、10代で家族の死を経験し、自身もそう長く生きられないと悟らざるをえないなかで後天的に屈折した感情を抱くようになった。それが作品の深さ、渦巻くような複雑さにも繋がっているのではないかと思います。
たとえば〈バラード〉のような作品ですと、深い森に踏み込んでゆく、語り手としての覇気のようなものも感じるのですが、今回演奏していただく晩年の〈舟歌〉になると、そうした深みもまた融け込んでしまった中で生きているような境地に至っているのかも知れません。いっぽうで、それに先立つ〈24の前奏曲〉では、さまざまな深さを照らす、さまざまな光を音楽が捉えているようにも思われて、とても面白い曲集ですね。
牛田:〈24の前奏曲〉の頃はショパンがまだ比較的若かったこともあって、ある意味で直線的というか、いい意味で視野を区切っている部分もあるのですが、〈舟歌〉になると、全てを呑み込んでいる。清濁あわせ呑むような、美しいものも醜いものも同じように命を吹き込んでゆくようなところがありますね。
たとえば〈24の前奏曲〉では、醜いものはそのままグロテスクなものとして表現される。たとえば第2番[イ短調]や、第18番[ヘ短調]もそうですかね。
ところが、〈舟歌〉も決してずっと美しいだけではなく、かなり長くペダルを踏んだり和声的には少し異様に聴こえるところもあるのですが、最終的には全てが美しさのなかに混ぜ込まれている。
ショパンも〈舟歌〉を書く頃にはおそらく自分の命がもう長くないことを完全に受け入れていましたから、そういう意味でも彼の〈諦め〉を感じることができるのではないかと思います。
今回のプログラムでは3曲を通してショパンのそうした精神状態の変化も感じられるかなと思います。僕もまだこういう曲順で弾いたことがないので、最後の〈舟歌〉がどういう効果をもたらすのか未知数なのですが‥‥。
◆〈舟歌〉のあとには
サントリーホールでのリサイタル[2020年8月開催]でも、〈ピアノ・ソナタ第2番〉や〈幻想曲〉などさまざまなショパン作品を弾かれる最後に、この〈舟歌〉を置かれていますね。
牛田:〈舟歌〉はショパンの数ある作品の中でも特別なもので、プログラムを組むときに、この曲のあとに置ける作品が見つからなかったんです。
たとえば〈幻想ポロネーズ〉を最後に、というやり方も魅力的ですが、やはりこの〈舟歌〉という作品が持つ無常観は特別で、その後に対抗できる作品は少ない。必然的にこれが最後になりました。
ちなみに、〈舟歌〉という作品に出逢われた最初の演奏を、覚えていらっしゃいますか?
牛田:いつだったか記憶にないのですが、最初は家にたまたまあったアシュケナージの演奏でした。どちらかというと直情的でエネルギッシュな演奏ですから、子供心にもそこに惹かれたのかもしれません。
「直情的」と仰いましたが、この曲はピアニストによって相当以上に幅の広い解釈が生まれる作品でもありますね。
牛田:本当に個性的で素晴らしい演奏がたくさんあります。もちろん自分にとっても大切な作品です。個人的には、この作品と周辺のいくつかの作品はショパンの《白鳥の歌》だと思っています。感情をあまり表に出さず達観した演奏が好きかも知れません。
ツィメルマンのような、がっちりした構成と計算されたテンポで圧倒的なクライマックスを築くような演奏も魅力的だと思いますし、僕はユリアンナ・アヴデーエワの演奏スタイルが好きなんですが、彼女の演奏は計算され尽くされていながらも、より詩的で、一音一音が雄弁に語る印象があります。
どんな演奏にも賛成できるところと疑問を感じるところはありますが、演奏会では現時点で自分が理想とする形を提示できればいいなと思っています。特に今回は〈24の前奏曲〉の後に弾くということもありますので、どんなアプローチが望ましいか考えています。
◆〈マズルカ〉とショパンのアイデンティティ
最初に演奏される〈マズルカ〉に戻りますが、このポーランド音楽独特の曲種には、難しさも多いのではないかと。
牛田:〈マズルカ〉を演奏するうえで意識しなければいけないのは、ショパン自身がこの〈マズルカ〉というジャンルにおいて、〈ポーランドの民族舞曲のコピー〉を作ろうとしたわけではない、ということです。
ショパン自身ワルシャワに住んでいる間はそれほど〈マズルカ〉に親しんでいたわけではなく、休暇で母方の実家がある田舎で過ごした期間に学んだというのが実際のところだったようです。つまり〈マズルカ〉のリズムを身体の中にアイデンティティとして刻んでいたわけではない。日本人が、必ずしも日本舞踊をアイデンティティとして持っているわけではないのと同じですね。
なるほど。
牛田:ですから〈マズルカ〉はショパン自身にとっても挑戦的なジャンルだったと思いますし、語弊があるかもしれませんが元来〈マズルカ〉は、舞踊の1ジャンルとして確立された芸術的価値の高いもの・・・というよりは、どちらかといえば田舎の自然や貴族のサロンにおいて仲間内で楽しまれる即興的で自由なものだったはずです。それがショパンの愛国心をもって、芸術的に最高レヴェルにまで引き上げられたわけです。もちろん〈マズルカ〉の特徴的な3つのリズムは理解し弾き分ける必要がありますが、あまりにも土着的な方向へ偏り過ぎないことも大事かなと思っています。
ショパン自身〈マズルカ〉のほとんどは、サロンで貴族たちを前に披露するために作曲していました。アクの強さは少しオブラートに包んで‥‥といいますか、貴族的な雰囲気も持たせた上でまとめられたらいいかな、と思っています。
あくまでピアノ芸術として書かれた〈マズルカ〉ですから、同じ芸術音楽でも、チャイコフスキーのバレエ音楽に登場する〈マズルカ〉ともまた全然違いますし、面白いものですね。
牛田:個人的な感想ですが、もしかしたらロシア人から見た〈マズルカ〉のほうが本来の土着的なものに近いのかも知れませんね。チャイコフスキーのピアノ曲では、〈18の小品〉[作品72]の中にも〈マズルカ〉がありますが[第6曲《踊りのためのマズルカ》& 第15曲《少しショパン風に》]、あれはショパンに比べると少しクセの強い踊りですよね。
ショパンの場合、〈ポロネーズ〉でも舞曲本来のきついリズムはあまり出てきませんし、非常に華々しく弾く人も多いですが、本質的には決してそういう曲ではない。もっと抒情的なもので、本来の民族舞踊とは少し違うものだと思います。むしろチャイコフスキーの作品に出てくる〈ポロネーズ〉の方が本来の誇り高いリズムに近いのではないでしょうか。
〈マズルカ〉も、初期に書かれたものと比べて、後期に書かれたものになると彼の中の〈ポーランドの記憶〉が少し変わっていってしまっているのかも知れません。記憶は美化されるものですし(笑)。
彼のポーランド時代の手紙を読むと、時折ポーランド人を見下しているような印象を持つことがあります。でもパリ時代の手紙にはそういったものはあまり感じられません。彼自身もともとフランス人の血をひいていたわけですから、ポーランドへの強い愛国心を持ちながらも、少し冷めたところがあったのではないかな、と。
今回弾いていただく〈3つのマズルカ〉作品56は、ショパン33歳‥‥恋人との暮らしの中で徐々に健康が悪化していった時期の作品です。マズルカというかたちのなかにも、幻想的なほどに自由な構成を展開してみせたりと、〈24の前奏曲〉と並べて聴かれることで、その面白さがあらためて浮かびあがってくるような作品にも思えます。実際のコンサートでどんな発見を感じ取ることができるか、私たちも楽しみにしたいと思います。
◆エキエル門下の名伯楽に学ぶ
ところで、牛田さんが実際にショパンの故国であるポーランドに行かれてみて、感じられたことを教えていただけますか。
牛田:街並みは全く違いますが、雰囲気や国民性は日本や韓国に近いものを感じました。他人に対する敬意を忘れない素敵な人たちですが、一方でたいへん内戦の多かった国でもあるので、屈折した部分も持っているような、意見が対立しやすいところもあるのかなぁと(笑)。二面性のようなものはショパンにも感じられるところですが。
ポーランドのピアニストにもショパンを学ばれていますが‥‥
牛田:[ショパンの新校訂版全集を編纂した]エキエル先生のお弟子さんで助手も長くされていたブロニスワヴァ・カヴァラ先生に定期的に教えていただいています。先生からはエキエル版がこのアーティキュレーションを採用するに至った経緯といったものを教えていただけることもあり、とても興味深いレッスンです。
ショパンの楽譜には大きく、パデレフスキ版といわれる伝統的な全集版と、エキエル版と呼ばれる新しく編纂された全集版とがありますが、カヴァラ先生に学ばれた牛田さんは、エキエル版をお使いになると。
牛田:ほとんどエキエル版を使っています。エキエル版はペダルの長さやアクセントの位置、フレージングといったものがものすごく考えられた楽譜で、たとえば同じフレーズが繰り返されるとき、パデレフスキ版だとなんとなく曖昧になっていてよく見ると違うのかな‥‥という箇所でも、エキエル版では違いがはっきり分かるように書いてある。
そういう意味で、長く使われているパデレフスキ版との違いによる違和感や原典との相違は別として、楽譜として見たときの興味深さはエキエル版にあると感じます。でもどうしても典拠が見つからないこともあるので、そういった部分では他の版を検討することもあります。
以前コンチェルトはパデレフスキ版で演奏していた時期もあって‥‥。ピアノ協奏曲第2番の第1楽章、提示部の最後で美しい非和声音が出てくるところがエキエル版ではなくなってしまっているのが嫌で(笑)。それを弾きたいがためだけにパデレフスキ版を使っていたのですが、デビュー以来多くの先生方のもとで学ぶなかで楽譜に対する見方も変わり、最近はそれ以上の面白さをエキエル版に見出せるようになりました。
◆精読することで〈楽譜に込められた時間〉を得る
楽譜に対する見方が変わられたというのも大きなことですね。
牛田:もともとデビュー当時は楽譜から離れやすいタイプだったんです。音符は見るけれど指示記号は見ない(笑)。そこから新しい世界を創っていったほうが楽しいじゃないか‥‥と自由に演奏するのが好きなタイプだったのですが、デビューして多くの先生に出会って素晴らしい音楽家の方々と仕事をさせていただくなかで、楽譜に忠実に、楽譜をより完全な形で再現する方法を模索するのが面白いという考え方に大きく変わりました。
大変化ですね。
牛田:何よりもロシアの先生方のもとで学べたことは自分にとって大きな転機でした。本当に素晴らしい先生ばかりで・・・。特に15歳から数年間、アルチョム・アガジャーノフという作曲家の先生のもとで古典派のソナタやロシアの代表的な作品を集中的に学んだのですが、その時に得たものは計り知れないと思います。
正直なところ最初はかなり抵抗していました。どうしてそこまで楽譜にこだわるのだろう・・・それでは皆同じでつまらない演奏になってしまうのではないか・・・と考えてしまって。そんなときアガジャーノフ先生に言われたのは、「君は楽譜をただの記号の羅列だと勘違いしているけれど、そこに書かれているのは彼らが思い描いた音楽のごく一部であり、神から与えられた音のごくわずかな破片なんだ」ということ。
作曲家は思い描いた音楽をすべて楽譜に書けるわけではありませんよね。現代の記譜法には限界があり、書かれた指示は彼らが頭の中で鳴っている音楽(神から与えられた音)を視覚化するために悩み抜いた結果であるわけです。だからこそ深い意味があって、ときに指示が矛盾することもあれば不完全な楽譜が出来上がることもある。それらをどう理解し聴き手に伝えるかということはもしかしたら作曲家自身もわからなかったかもしれない。その答えのない問いに人生をかけるのが演奏家だと教わりました。今ではその考え方を心から尊敬しています。
演奏家が自身のフィーリングで演奏するのも魅力的です。でも、楽譜の細かな指示に忠実に弾くということは、作曲家がその楽譜を書くために使った何十時間、何千時間という時間をも辿ることができるわけですよね。たとえ楽譜の指示が自分の好みと違ったり理解しがたいものでも必ずそこには何か意味がある。それらは客観的に聴いたときに、深みが全然違ってくる‥‥と思うようになりました。
よく「行間を読め」ということが言われますが、行間を読むには、行がちゃんと読めていないといけないわけですしね‥‥。読めてこその自由、と。
牛田:自由とは究極の不自由であるという言葉がありますがその逆で、楽譜を細かく読めば読むほど演奏家が手にする自由は大きなものになると感じています。
アガジャーノフ先生に教えをいただくようになって以降レッスンもあまり怖くなくなりました。‥‥それこそ楽譜という基準を自分の中に持たなかった昔は正解が先生にあって、先生の言うことがすべて。これが正しいのかな、正しくないのかな‥‥と先生の反応を見ながらレッスンが進んでいくところがあったのですが、自分でちゃんと楽譜を読むようになると、「楽譜はこうも読めるのでは」というような疑問をちゃんと持って、議論ができる。時期によっては複数の先生のレッスンを短期間に集中して受けることもありますが、一言一言に振り回されすぎず、違ったアプローチもあるのだとみられるようになったことも大きな変化だったと思います。
◆やり尽くした末に、楽譜へ還る
牛田:現在はロシアとポーランド、そして昭和音楽大学附属ピアノアートアカデミーで江口文子先生からも学んでいて、音楽に対する考え方はデビューしてから大きく変わったように思います。それこそデビュー当時、モスクワの先生方に学び始めた頃はレッスンのたびに呆れられたものです(苦笑)。
お若いうちに真逆の方向へ転換できたのですから、それはむしろ良かったのかも知れませんね。
牛田:ええ。はじめに好き勝手やって、やりたいところへ行きついてしまったのが、逆に良かったのかも知れません。
とはいえ、普通の人なら逆に高い技量で〈好き勝手〉もできないわけですから‥‥。
牛田:モスクワの先生も、好き勝手をやめて楽譜にしっかり向き合うまで強制せずに待っていてくださいました。もちろんレッスンでは「楽譜に書いてある通りに演奏したほうがいいんじゃないかな?」とは一応言われるんですが(笑)、静かに見守ってくださって。
15歳のとき、ムソルグスキーの《展覧会の絵》を演奏したのですが、これはロシアでは古典的な作品として捉えられていて、ベートーヴェンやモーツァルトのように弾くことが求められるんです。ところが自分はあの曲をオーケストラのように弾きたくて、音を足した版を作ってしまって。
ホロヴィッツ版みたいですね(笑)。
牛田:あれをさらに変えましてね(笑)。今聴くと真っ青になるようなことをやっていましたし、それを聴いた先生はきっと内心で頭を抱えていたと思うんですが、それでも「納得がいくまでやってみなさい」と見守ってくださっていて‥‥。アイディアを極限までためして、楽譜から離れてやりたいことをやりきったからこそ、いま楽譜通りに弾くことの面白さが分かる、というところはあるのかも知れません。
デビュー当時とは全く違う音楽観を持つようになったので、昔をご存知のかたは、今の演奏を聴かれると、全然違う‥‥と感じられるかもしれませんね。
演奏家の大きな変化を感じられるというのも、若くしてデビューした演奏家を追い続ける楽しみ、なのかも知れません。
◆大きな成長を遂げたいま、第一生命ホールへ
そうすると、〈学ぶこと〉がお好きになりましたか。
牛田:そうですね。デビューしてすぐの頃は、〈楽譜や作品を学ぶ〉ということがどれほど深いことなのか、本当の意味では理解していなかったと思います。最近は特に学ぶことが楽しくなりました。
素晴らしい。
牛田:また、たとえばショパンの音楽は素晴らしい作品ですが、そのまま弾いただけでは音楽として成立しないところもあって・・・演劇的なイントネーションとか、テンポ・ルバートとか、演奏家の技術をもってこそ美しくなる部分が多いように思います。特に協奏曲のオーケストレーションについては、オーケストラがモーツァルトやベートーヴェンのように弾いてしまうと情報不足に陥ることもある。演奏家の表現技術を前提として書かれている部分がショパンには多いので、演奏家にとってはそういった楽しみもあるのかな、と思います。
こうして、ピアニストとして大きい変化を遂げたいま、《昼の音楽さんぽ》にオール・ショパン・プログラムでご出演いただくというのは、初めてお聴きになるかたはもちろん、デビュー当時から牛田さんの演奏を聴かれてきたかたにも、とても充実した時間になるのではないかと思っています。
牛田:こちらこそ、[普通のコンサートと違って]休憩なしの1時間という、集中の途切れない按配で弾けるというのも、とても楽しみにしています。最初から最後まで全力投球できるのがいいなぁと思って。
第一生命ホールは小学生の頃に弾いたことがあって‥‥その時は緊張しちゃっていたので、今回はリベンジを(笑)。
客席のどこで聴いていても、舞台上の音楽をまっすぐ感じられるいいホールだなぁ、といつも思っていますので、今回もお楽しみいただけると確信しています。
牛田:いいホールですよねぇ。楽しみにしています。
ちなみに、最近のアルバムでも今回もオール・ショパンですが、今後取り組まれたい作曲家などは?
牛田:今はショパンに集中して取り組んでいますが、アガジャーノフ先生と約束しているのは、これが終わったらブラームスを、と。〈ピアノ・ソナタ第3番〉や〈ピアノ協奏曲第2番〉などを勉強したいと思っていて、これも楽しみにしているんです。
また最近は江口先生のもとでテクニックの見直しをしています。技術を安定させ、音楽的なことにより集中できるようにといろいろな課題をいただいているので、コンセプトが合えばそれらも演奏会で取り上げられたらと思っています。
コンチェルトなど、新しいレパートリーも広げていただければと期待しております。
牛田:興味を持っている作品がたくさんあるので、いろいろ開拓していきたいと思っています。
今後のさらなる大きな飛躍を近くで体感し続けるためにも、ファンの皆さんや、これからファンになられるかたにも(笑)、ぜひ今回のリサイタルをお聴きいただければ、と願っております。本日はありがとうございました。
牛田:ありがとうございました!
[2020年1月、都内にて]
【付 記】
牛田智大さんにお話を伺いました。このインタビューは、リサイタルが延期になる前‥‥コロナ禍が深刻化する前に収録されたものですが、今回あらためて牛田さんに原稿を読んでいただき、手を入れていただきました。お忙しいなか丁寧誠実にご対応いただきまして恐縮しております。
昨年は公演が開催できなくなってしまい、筆者も残念に思っていたのですが(その節は、チケットをお買い求めの皆さまには大変お手数をおかけいたしました。あらためてお詫び申し上げますと共に、ご理解ご協力に深く感謝いたします)、シーズンをまたいで今年、振替公演としてあらためて実現することになり、いよいよこのプログラムを体感できるのか‥‥と、心から楽しみに思っています。どうか無事に開催できますように!
文中にもありますが、今回のリサイタルでも演奏していただくショパン〈24の前奏曲〉は、牛田さんが2019年にレコーディングされて、素晴らしい成果を挙げた作品です。
筆者は当時このアルバムの発売にあわせて、『レコード芸術』誌[音楽之友社]でインタビューさせていただきました。録音の優れた内容に心動かされるとともに、実際に牛田さんにお会いして、自省と研鑽を重ね続けるこの謙虚なピアニストが真摯に向き合ってきたショパン‥‥その表現をめぐる深い思索を伺いながら、なるほど雄弁なレコーディングがしっかりと捉えた〈24の前奏曲〉の異様なまでの多彩は、この真っ直ぐな格闘から生まれたのか、と、あらためて強い敬意を抱いたのでした。
《昼さんぽ》シリーズにもぜひご登場を‥‥という願いが、さっそく実現して喜んだのもつかのま、コロナ禍に阻まれてしまったわけですが、こうして1年を経ての実現に向けて、牛田さんをはじめ各位のご尽力ご調整をいただきましたこと、感謝の限りであります。
世界が困難と向きあい続けてきた日々のなかで、牛田さんがどのように音楽を深めてこられたのか、当日、わたしも客席でしっかりと深く受けとめたいと思っています。いらしてくださる皆さまも、ぜひお楽しみに。
ひきつづき、皆様くれぐれもご自愛くださいますよう。
[山野記]