「第九」以降、さらに発展していくベートーヴェンの世界を唯一味わうことができるジャンルとして、多くの弦楽器奏者が演奏したいと思う後期の弦楽四重奏曲群。この後期の5曲に4年にわたって取り組んできたエルデーディ弦楽四重奏団の、蒲生克郷さんと花崎淳生さん(ヴァイオリン)に話をうかがいました。
シリーズ1年目に第12番と第14番を演奏した後、作曲された順に第15番、第13番「大フーガつき」と演奏、最終年となる今回は、ベートーヴェンが最後に作曲した弦楽四重奏曲第16番を演奏していただきます。
蒲生:作曲した順番で見ると、後期の入口にあたる第12番が4楽章構成、その後、第15番が5楽章、第13番が6楽章で最終楽章が「大フーガ」、第14番は切れ目なく続く7楽章と、楽章がどんどん増えて、構成が大きくなっていきます。(表参照)
ところが、この第16番になって、また古典的な4つの楽章で構成される弦楽四重奏曲に戻ります。結果としては、これがベートーヴェンの書いた最後のまとまった曲となりました。ですが、これが最後にたどり着いた曲というよりは、ここから先に、また何か作ることができたのではないかという思いの方が大きいですね。交響曲は「第九」が、「第十」を試みた形跡はあるにしても一応終着点になると思われるし、ヴァイオリン・ソナタなどの編成ではこれ以上深いものは書けなかったような気がしますが、弦楽四重奏曲は、後期の展開を見ると、これで終わりにするつもりではなかったと思うのです。
この第16番は古典的でコンパクトでありながら、変化に富んだ、謎の多い、とても不思議な曲だと思います。例えば、4楽章には「Muss es sein?(かくあるべきか)」「Es muss sein!(かくあるべき)」問答が音として書いてあります。それが何を表すのか。一説には、借金の「お金を返してくれ」というやりとりを単純に音にして、作品の主題にしてしまったという話もありますが、もっと深遠なものを示唆しているという説もあります。我々としては、書いてあることを実際の音とした時に、その音から拾って解釈するしかありません。全体的に、割とあっけらかんとした明るさがあり、ジョークみたいなものもたくさんちりばめられているかと思えば、3楽章は、やはり後期の作品でしか書けなかったような深みのある楽章で、興味がつきない曲です。
そのベートーヴェンと並べて、ハイドン、バルトークそれぞれの、完成された弦楽四重奏曲としては最後の作品を組み合わせました。
蒲生:ベートーヴェンの作品があまりに大きくそびえ立っていたため、その後の時代の作曲家たちは、弦楽四重奏曲を作曲することに非常に葛藤があったわけですね。ようやく時代がバルトークまできて、スタイルが変わって、全く違うアプローチで書くことができたのです。
花崎:この第6番は、バルトークがアメリカへ亡命する前に書かれた曲で、全楽章がメスト(悲しげに)という変わった構成です。それまでのバルトークとは違って、感情があらわになり、内面をより深く表現している曲です。バルトークは、とっつきにくいと言われる方もいますが、小学校などで演奏してみると、子どもたちには先入観なく受け入れられて聴いてもらえますね。
蒲生:ハイドンは、もう体力的にこれ以上は書けなかったのでしょうね。この作品77も当初は6曲書く予定が2曲になってしまっている。この曲の後、Op.103は、2、3楽章だけ書いていますが、もうこれ以上書けないと、自分から出版社に譜面を渡していますが、楽譜の最後のページには、「私は衰えた」という歌の冒頭が印刷されています。 6曲完成しているOp.76(注:エルデーディ四重奏曲。「五度」「皇帝」「日の出」「ラルゴ」などを含む)がほとんど集大成みたいなものですが、Op.77はそれに勝るとも劣らない。
花崎:すごく充実した作品です。
蒲生:ハイドンの弦楽四重奏曲がベートーヴェンのそれと違うのは、どう変わっていくか分からない、という発展の仕方ではないところです。実験を重ねているのですが、彼の書いた集大成がそのままつながっている。Op.77は、少し斬新なところもあって、メヌエット楽章の速度記号がプレストで、ほぼスケルツォのようだったりします。これはベートーヴェンの影響かもしれません。
花崎:この頃、ベートーヴェンの最初の弦楽四重奏曲Op.18は大方作曲されていますから。
ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲の魅力に気づいたのは、いつでしたか。
花崎:最初に後期の曲を聴いた時は分からなかった気がします。きちんと弦楽四重奏団を組んで、自分たちで演奏するようになって、すばらしい曲だな、こういう曲が演奏できるのは幸せなことだな、と思いました。何度弾いても、毎回発見があって色々な部分が見えてきます。
蒲生:だからこそ、何度も演奏したくなるのでしょうね。
ありがとうございました。公演を楽しみにしています。